新島の形成と歴史
新島の形成と歴史にについて
1779年 桜島火山の桜島安永噴火に伴い周辺の硫黄島、中ノ島、猪ノ子島と共に海面上に隆起。
1780年 鹿児島湾海上に岩が出現し、4月8日には島となった。4月15日には同様に出現した島と一つになり東の砂島となった。一方、5月17日には海上に別の岩が出現し6月5日に島となった。この島も6月11日に別の島と一つになり西の砂島となった。7月17日から18日にかけて両島の間にさらに別の島が出現し、東の砂島と西の砂島をつなぐ形で一つの大きな島すなわち新島となった。
1781年 天明元年3月18日に島の西側で噴火があった。1785年(天明5年)の地図によると当時の新島は現在の数倍の面積があり、南、北西、北東に岬を配する三角形を呈していた。南端の岬はスサキ、北東端の岬はカンノスと呼ばれ、カンノスの南側に入り江を挟んでシモンスと呼ばれる岬があった。カンノスとシモンスは1786年(天明6年7月16日)に襲来した台風のために消失している。形成直後の新島は周囲1里(約4000メートル)以上あったと記録されているが、1785年(天明5年)の薩摩藩による調査では2264メートル、1961年(昭和36年)の調査では1450メートルと縮小している。深刻化した。これは主として波による侵食を受けたためである。特に1945年(昭和20年)以降相次いだ台風の襲来や冬期の季節風によって侵食が進み建物が侵食が進み建物が失われるなどの被害が深刻化した。このため1966年(昭和41年)から離島振興法の適用を受け海岸に護岸工事が施された。
1800年 新島に桜島の赤水村と黒神村から24名が移住し、以降赤水村に属した。町村制施行後は桜島の西側にあたる西桜島村(後の桜島町)大字赤水の一部(字新島)に。
2004年 桜島町が鹿児島市に編入された際には桜島赤水町の一部となった。
2006年 桜島赤水町の一部より分割され、新島の島域に鹿児島市の町名「新島町」が設置された。
人口の推移
人口の推移について
1951年 約250人が居住していた新島だが、
1972年 桜峰小学校の分校が閉校、
2005年 5人にまで減少した。
2013年8月 全住民が島外へ移住したことにより、定住者ゼロの無人島となった。
2019年7月 元島民の夫婦が転入届を提出し、人口2人の有人島となった。